観音山

一関市,平泉町
標高325.2m
JR平泉駅から東磐交通バス東岳行き長島下車
JR一関駅から東磐交通バス箱石行き陸中和田下車

【写真】高舘橋から観音山

2003年11月12日
 843 真城発(県交通バス国道南線\500)
 913 平泉駅前着
 938 矢崎
 948 長島
1004 正一位白山神社前(大野東人)
1009 長島須崎
1013 下平
1022 遊水池展望台
1036 舞草神社黒門
1055 舞草神社
1109 大夫岩
1123〜1143 山頂 三等三角点
1148 舞草神社
1204 舞草観音堂入口
1223〜1243 陸中和田バス停(東磐交通バス\450)舞川揚水機場
1303〜1310 一関駅前(県交通バス国道南線\310)
1332 平泉駅前
1346〜1530 平泉温泉
1603 中尊寺バス停発(県交通バス国道南線\460)
1630 真城着

バス時刻表
長島発平泉温泉行き711,753,957,1438,1726
長島須崎発一関行き710,740,840,940,1240,1340,1540,1720(日祝840,1010,1340,1540)
平泉駅発東岳行き725
中尊寺発黒滝温泉行き807,832,1232,1742(日祝807,1232,1542)

 平泉の高舘付近から東の束稲山を見ると束稲山塊は長島地区を取り囲むようにして連なっているように見える。時計回りに駒形山・経塚山・音羽山・束稲山・東岳峠・観音山と稜線が逆Cの字を描いている。観音山は数年前まで山腹が土砂採取で山肌が剥きだしになっていて目立つ存在であった。これが景観を破壊するとして観光客に不評を買ったため修復されつつあるようだ。
 自宅近くのバス停から県交通バスに乗車し国道4号線を南下する。前沢を過ぎるまで乗客は小生を含め1〜2名。乗降客があるたびに運転手は何かをノートに書き付けている。乗客調査でもしているのだろうか。この人数ではこの時間帯のバスは減便かも知れないと思っていたが前沢を過ぎ瀬原,衣川橋でどっと乗車してきた。衣川の人は平泉と結びつきが強いことを実感した。
 平泉駅前で下車し歩き始める。柳之御所から高舘橋を経て北上川の対岸の長島に着く。高舘橋はバイパス建設事業で新しくなったが南側に歩道がない。長島側の県道は南側に歩道があるのだから新しく作る橋も南側に歩道がないと歩行者にとって不便だし危険でもある。設計者は何を考えているのだろうと思いながら進む。
 信号機のある長島交差点で右折(南へ)。県道北上−一関線に入る。この道は大型車の通行が多いが長島地区は歩道があり安心して歩くことができた。途中の長島須崎バス停には待合所があるので帰りはここで休憩できそうだ。
 下平バス停のすぐ先に「遊水池展望台800m」の標識がある。そこで県道と分かれ左折し坂道を上る。しばらく進むと県道新設工事で山を切り崩している。北上川の洪水による県道冠水対策で県道を35m高台に新設する、と現場立て看板に記されている。遊水池展望台には遊水池事業についての紹介看板が立つ。眺めも良い。うねうねとした道を進んで行くと右手に商店がある。さらに進むと舞草神社入口を示す石柱が左手に立っている。「延喜式内舞草神社 椎名悦三郎書」とある。黒門をくぐり参道を上る。足元は石が多いが石階段が崩れたのかもともと石が多い場所なのかはわからない。(参道の一部には石階段がある。)斜面は急で普通の登山と変わりない。
 20分ほどで舞草神社に着く。井戸,門,鐘楼などがあり静かで格式がある神社である。神社の由緒書きを見ると坂上田村麻呂や平泉文化に関わりのある神社であることを知る。傍らに「日本刀源流之一ツ鎌倉鍛冶之始祖 舞草古鍛冶発祥之地 平成15年4月17日建立 舞草刀研究会会長間宮光治」という真新しい石碑が立つ。この付近でタタラ跡や鉄滓の発見が発見されたとのこと。またすぐ近く(東側)に鉄落山(白山岳の別称)という鍛冶に深く関係した山があるようで興味がひかれた。
 参拝後,大夫岩に寄ってみた。本堂から西に林道を進むと左にカーブしすぐ広場に出て行き止まりになる。ここに遊水池事業の看板が立っている。広場の右から細い道に入ると大岩がありそれが大夫岩と思われる。この岩の上に立つと景色が素晴らしい。平泉から一関まで一望できる。遊水池展望台よりも遥かにいい眺めである。観音山の中では一番の展望地である。しかしタバコの吸いがらが目立つのがいただけない。
 再び舞草神社に戻る。本堂の左に「しばらくは花の上なる月夜かな」の芭蕉句碑がある。碑は風化で読めないが碑のそばの木柱にそう書いてある。舞草神社と芭蕉句にどんな関係があるのだろうか,宿題が増えた。その句碑の前に「吉明神山頂」という小さな立て札が立っていた。句碑の左裏手から山に登る道が続いている。森の中で薄暗く落ち葉で道ははっきりしないが黄と黒のトラロープが山頂まで張り巡らせてあるのでそれに沿って歩く。10分弱で山頂に到達した。吉明神と思われる祠が数基並んでいる。三等三角点は祠の左にあった。「観音山」のプレートがその近くの木に掛けてあった。周囲は木に囲まれ展望はない。また他方に下山するルートはない。尾根伝いに西に行くと岩場があり木々の隙間から若干の展望がある。その上に腰掛け昼食とした。
 先ほどまで天気が良かったのだが空が雲で覆われ小雨が降ってきた。昼食を早々に切り上げ下山する。傘を持ってこなかったので大降りになったら長島須崎のバス停で雨宿りしながらバスを待つつもりである。幸い雨はすぐに上がった。帰りは黒門ではなく仁王堂に下る林道を通った。そのまま下っていくと広い舗装された車道にでる。そこには舞草観音堂入口の道標と女殺沢の伝説の看板があった。広い車道を100m東に進んで右折し沢沿いの細い車道を下る。県道北上−一関線に突き当たるので右折(北へ)すると商店の前に陸中和田バス停がある。近くに舞川揚水機場がありバスの時刻まで北上川を眺めながら休憩した。
 定刻にバスが到着。終点の一関駅前まで乗車した。駅舎に入るとわずかの差で下り電車に間に合わず。途中の柵瀬口で下車し山ノ目駅で乗り換えた方が良かったようだ。県交通バスの中尊寺行きに乗車し,平泉温泉で本日の旅を終えた。
舞草神社の由緒
此の神社は仁寿二年八月従五位の下を授けられ陸奥百座磐井二座の中の一座で延暦年間坂上田村麻呂東征の砌りこの社殿に聖観音を勧請当時「きば寺」と呼ばれていた。佛教が盛んになるに従い僧□も漸増し平泉全盛のころに二十四院を数え観音堂を囲んで散在するに至ったと言われ羽場の観音と称せられていた。
この吉祥山東城寺は奥州三十三番のうち二十七番札所として栄えたが明治四年排佛棄却に遭い神社と□復□し同年十月郷社に定められ明治八年村社に定められた。大正二年十一月熊野神社を合祀し今日に至っている。
注:□は判読不能の字


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