東北自然歩道 新・奥の細道

胆沢平野を望むみち

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【写真0】夕暮れの散居集落(水沢市見分森より,1994年8月撮影)

● はじめに

 胆沢平野は胆沢川が焼石連峰から流れ出るところにできた扇状地です。この地域の集落の特徴は田畑の中に家々がポツリポツリと点在している(散居・散村)点です。日本の三大散居集落として富山県の礪波平野,島根県の出雲平野,そして胆沢平野が知られています。
 小生が小学生の頃なぜ胆沢平野に散居集落ができたのか,について社会科の授業で教わった記憶があります。
 扇状地の土地は砂礫のため水はけがよく水はすぐに地中にしみこんでしまいます(伏流水という)。水を得るには井戸を掘り地下水を汲み上げなければなりません。家屋が集中していると一つの水源からたくさんの地下水が必要となるので水が足りなくなります。そのため家屋を分散したとのことです。
 そのほか,家屋の周囲に田畑があると農作業が楽だからという説もあります。しかし,はっきりとした理由はまだ解明されていません。散居集落は日本の農村の原風景ではないかと考えられています。現在は,数百年前の先人の努力によって穴山堰・寿庵堰・茂井羅堰などの潅漑用水路が整備され県内一の穀倉地帯(JA岩手ふるさとのひとめぼれとして有名)となっています。
 自然歩道は散居集落の中の史跡を巡り歩きます。西側にそびえる焼石連峰の眺めもよい。ほぼ全コースが舗装されているので気軽に歩けるコースです。

● 調査日

2002年5月1日

● コース概略図

(終点)下鹿合→1.0km→山城鹿合館跡公園→0.8km→上愛宕→1.2km→上萱刈窪→1.5km→上萩森→1.3km→漆の里増沢→1.5km→大平(起点)(計7.4km)

新奥の細道・胆沢平野を望むみち

 このコースは起点衣川村大平から胆沢町下鹿合に至る全長7.4kmの自然歩道です。漆の里増沢,衣の滝を巡り北奥羽最古の旧石器時代の「上萩森遺跡」を過ぎると全国でも希にみる胆沢平野の散居集落の家並みが望めます。
 このルートは歴史散策の道として親しまれています。約3時間の散策路です。

● 交通アクセス

起点の大平へは水沢駅通りから岩手県交通バス(衣川大平行き)に乗車し終点大平バス停で下車。
・大平バス停発水沢行き710,950,1420(710は土日休運休)
・水沢駅通り発大平行き832,1302,1652(1652は土日休運休)

終点の下鹿合へは水沢駅通りから岩手県交通バス(愛宕・ひめかゆ行き)に乗車し愛宕バス停で下車。運行本数は,ほぼ一時間に一往復。

● コースを歩いて

(注・小生は終点から起点に向かう逆コースで調査したので,本文も逆コースの案内となっています。)
 水沢市街地から国道397号を西に向かって約20km進むと国道沿いに愛宕集落があります。小さな商店が立ち並んでいます。集落の中程国道北側に愛宕小学校があります。小学校の西側の交差点で右折(北に向かう)し坂を下ると胆沢第一発電所の建物が右手にあります。胆沢川を越え突き当たりの丁字路を左折(西に向かう)し下鹿合(しもししあわせ)集落に向かいます。道の左手(南側)のガードレールの外側に自然歩道の終点を示す道標が立っています。ちょうどこの場所は金ヶ崎温泉への道が北側に分岐する丁字路です。

【写真1】終点・下鹿合

 西に向かって500mほど進むとオショレンジ堂の入口を示す道標が立っています。南側100m先の水田の中にある小社がオショレンジ堂です。お堂の前に雷電塔と呼ばれる石神が祀られてあり,案内板によれば雷を神格化した神,水神,作神として信仰されているとのこと。なお,この石神は胆沢町内最古(文化13年=西暦1817年建立)です。

【写真2】オショレンジ堂/右前に立つ石柱が雷電塔

 さらに西に500m地点に鹿合館跡公園があります。公園入口の駐車場内にトイレと自然歩道の地図入りの案内板があります。北側の丘陵が館跡を一周する散策路となっています。階段を上り反時計回りにまわると大杉が立つ展望台があり東面の展望がよい。その後,稜線を進むと本丸跡に出ます。周囲に空堀の跡がはっきりと残っていて要害の地であったことがわかります。案内板によるとこの館には下記の者が居城したとのことです。
・康平年間(1056〜1065) 安倍貞任の家臣
・天正年間(1573〜1592) 柏山伊勢守明吉の家臣高橋盛富

【写真3】鹿合館本丸跡

 胆沢川に架かる上鹿合橋を渡り再び国道397号に出ます。ちょうどこの場所に上鹿合バス停があります。ここで国道397を東へ(水沢方面へ)進みます。(【写真4】に示すように道標が倒れていたため行き先に迷いました。)100m進むと国道の南側に旧仙北街道の案内板が立っています。ここで右折(南に向かう)します。

−−旧仙北街道の案内板の内容です。−−
仙北街道は坂上田村麻呂が胆沢城を築城して以来,陸奥と出羽を結ぶ交易ルートとして賑わいました。この付近の国道397号は旧仙北街道と一致しています。また沿道約7kmにわたって桜が植えられ「桜の回廊」として岩手県の桜の名所の一つでもあります。

残念ながら今年の桜の開花は異常に早かったため調査当日はすでに桜花は散っていました。

【写真4】国道397号・上鹿合入口

 胆沢川は扇状地と同時に河岸段丘も形成しました。上鹿合から上萱刈窪の間の上り坂,上萱刈窪から上萩森の間の上り坂は段丘崖だと思います。これは胆沢川の流路が南から次第に北に移動したことを示しています。したがって胆沢平野は南から北に向かって階段状の地形となっていて南が高く北が低くなっています。
 一帯は散居集落です。胆沢平野の特徴は家屋の北と西にエグネと呼ばれる防風林が植えられていることです。エグネは伊達藩によって保護されてきたとのことです。参考として 胆沢町のホームページを挙げます。
 当地方育ちの小生にとっては(農村=散居+エグネ)と思っていましたが後になってこれらは胆沢平野独特の景観だと気づきました(他所にこんな景観はありません)。胆沢町としても町おこしの一つとしてこの景観を保存していくとのことです。
 上萱刈窪から上萩森の間の上り坂の途中,道路を横断して流れるのが穴山堰です。400〜500年前に開削されたようです。地元の研究家が何度か現地調査をしていますがいつ誰が着手したか不明です。当時としては高度な土木工事と言われています。胆沢川の上流部からトンネル水路で水を引き前沢まで流れています。

【写真5】穴山堰

 上萩森集落(といっても散居集落なので家屋は周囲に数件疎らにある)ではショベルカーが広範囲の山を切り崩し赤土を採取していました。この採取場の西端の未舗装道を上ります。

【写真6】道標・漆の里増沢へ1.4km地点(ここから未舗装の坂道を上ります)

 胆沢町と衣川村の境界に上萩森遺跡があります。今から2万5千年前,最後の氷河期の時代の遺跡で出土品はペン形ナイフ形石器です。まだ土器の無い時代です。

【写真7】上萩森遺跡

 増沢に下ると丁字路があります。右(西)衣の瀧2.6km,左(東)大平1.3kmと道標に記されています。衣の瀧に寄ってみました。本自然歩道の距離は7.4kmですが,衣の瀧を往復分の距離5.2kmは含んでいません。したがって衣の瀧に寄った場合,距離は7.4+5.2=12.6kmとなります。衣の瀧への道は以前は砂利道の林道でしたが現在では立派な舗装道路になり容易に行けるようになりました。衣の瀧の由来は天女が舞い降りて羽衣を洗ったからとのことです。
 道を引き返し大平に向かいます。途中,増沢ダムがあります。ダム湖畔に望郷の碑が立っています。ダム建設によって水没した漆の里・増沢集落について記されています。増沢は明治初期から約80年間秀衡塗りの産地として栄えました。望郷の碑は漆塗りのはけとへらを模しています。

我がまほろばの里
 高桧能からの前川,衣の滝からの後川,この二つの川が合流する落合を囲むように塗師,木地師を始め民芸に秀でた人々による秀衡塗の工房が続き商い人の往き来も繁く木炭を焼き馬を飼う往時の七十世帯に及ぶ人の暮らしがありました。
 昭和22年,23年のカザリン,アイオン台風による水害を契機に岩手県ではダム建設の計画を立てました。衣川流域では5ヶ所が計画されその第1号として増沢が候補地となりました。そして増沢集落の開拓移転が開始されました。
 昭和50年地すべり発生による最終移転のやむなきに至りついに無人の里となりました。


【写真8】増沢ダムの記念碑・右が望郷の碑

 ダムの下流に進むと水田が広がり集落が見えてきます。ここが大平集落です。大平バス停から50m東側に起点を示す道標と地図入り案内板があります。

【写真9】起点・大平
<完>

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