東北自然歩道 新・奥の細道

旧奥州街道のみち

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● はじめに

 岩手町の御堂観音(北上川の源泉)から一戸町小繋まで旧奥州街道を通るコースです。岩手県内の東北自然歩道の中では最長(13.3km)です。

● 調査日

2006年11月19日

● コース概略図

(起点)御堂→0.8km→御堂観音→0.8km→御堂・馬羽松一里塚→1.5km→摺糠→1.2km→明治天皇祈念碑→1.4km→旧中山一里塚→2.7km→火行→1.0km→塚平一里塚→1.9km→小繋駅→2.0km→小繋(終点)

● 交通アクセス

 起点の御堂はいわて銀河鉄道・東北新幹線いわて沼宮内駅から岩手県北バスに乗車し御堂で下車。終点の小繋はいわて銀河鉄道小繋駅から徒歩30分。

● コースを歩いて

 いわて銀河鉄道御堂駅で下車。乗車した電車はワンマンカーなので下車するとき運転手に料金を支払いました。下車したのは小生一名。駅舎を出るとすぐ国道4号線です。国道を北に向かって歩き始めます。御堂観音へはバスを利用した方が便利ですがあいにく都合のいいバスの便がなかったので駅から歩くことにしました。国道の西側に北上川が流れています。国道に近づいたり離れたり蛇行しながらその流れは心なしかしだいに細くなっていくようです。
 御堂駅から3kmほどで「御堂観音、北上川源泉」と記された道路標識があり、そこから右手に分岐する道に入ります。


【写真1】国道4号線:御堂観音はここで右折

 北上川沿いの道を進んでいくと自然歩道の起点を示す道標を発見しました。途中御堂新田の滝へ向かう道が右に分岐しますが自然歩道のコースは直進します。白樺並木の道を通り抜けると御堂観音の門が見えてきます。門の右となりに自然歩道のコース案内板も立っています。

新奥の細道
東北自然歩道 旧奥州街道のみち
 ここは、東北自然歩道「旧奥州街道のみち」コースの御堂観音です。このコースは、起点岩手町御堂から、一戸町小繋まで全長13.3kmの自然歩道です。この境内に北上川の源泉「弓弭(ゆはず)の泉」があります。また岩手町と一戸町の町境には、旧道の名残である一里塚「御堂・馬羽松(まはまつ)一里塚」が県指定の文化財として残っています。他に、旧中山一里塚、火行伝馬所(ひぎょうでんましょ)、小繋御番所など旧奥州街道ならではの面影をしのばせています。約4時間堪能できるコースです。


【写真2】御堂観音の門

 観音堂の由緒書きをメモしていると、門前の草木の手入れをしている女性の方から話しかけられました。「歩いてきたの」「そうです。」「駅から?」「そうです。」「これからどこへ行くの」「もうちょっと先まで行ってみようと思います。」「天台寺まで?」「いやぁそこまでは無理かな、ははは・・・」
 門をくぐり階段を上って境内に入ります。本堂の右手裏に北上川源泉の弓弭(ゆはず)の泉がありました。


【写真3】弓弭(ゆはず)の泉

 北上川はここから河口の追波湾まで249kmの距離を流れています。御堂観音は坂上田村麻呂が開基、源義家が観音堂を建立し持仏を奉納したとのことです。
 御堂観音の東側はいわてまち川の駅があり東屋、トイレ、駐車場、水車、蓮池などが整備されています。

弓弭(ゆはず)の泉伝説
 天喜五年(1057)旧暦6月、源頼義、義家父子が安倍氏を討つため進軍しこの地にやってきました。兵隊や馬は暑さと飲み水がないので疲弊していました。義家が弓弭(ゆはず・弓のつるをかける先端部分)で岩を突くとにわかに清水が湧き出てきました。
 義家は安倍氏を討った帰り道この泉を訪れ戦勝の御礼をするためにここに堂を建立しました。そしてもとどりの中に入れて戦ったという一寸二部の黄金の千手観音を取り出しこここに安置したと言われています。
 いわてまち川の駅パンフレットから抜粋

 御堂観音をあとにし旧奥州街道を北上します。岩手町と一戸町の町境に御堂・馬羽松一里塚があります。道の両側に相対して二つの塚(東塚・西塚)があるのが特徴です。

御堂・馬羽松一里塚
 幕府の道中奉行が管轄する奥州街道は江戸から白河(福島県)まででしたが、道は仙台・盛岡を経て津軽半島の三厩まで続き、これも奥州街道と言われました。御堂・馬羽松一里塚はその奥州街道に造られたもので盛岡から北に10番目の一里塚です。塚は二つとも残っており、東塚は直径11.2m,高さ2.8m。西塚(岩手町)は直径12.2m,高さ1.6m。


【写真4】御堂・馬羽松(まはまつ)一里塚

 馬羽松集落から広大な畑地の風景となります。さらに進むと平糠川沿いに摺糠集落が開けています。


【写真5】摺糠

 平糠川に架かる橋を渡り右折。170mほど進むと自然歩道のコースは車道の左手に分岐し未舗装道の斜面を上ります。近くの酒屋の主人から声を掛けられました。旧奥州街道のこの区間は訪れる人も多く地元の方も維持保存に関わっているのではないかと思われます。
 畑地と樹林帯の風景が続きます。途中、明治天皇御休憩之跡の石碑がありました。明治14年8月22日(紀元2593年)に明治天皇が東北地方巡幸の折この地で休憩したとのこと。石碑は昭和8年7月27日の建立です。小生も記念碑付近の牧草地で昼食休憩としました。


【写真6】明治天皇祈念碑

 未舗装道路から車道交差点に出ます。ここにも自然歩道のコース案内板があります。少し進むと釜石集落へ分岐する道があります。集落入口の案内板を見ると、平糠川に建設される大志田ダムにより13戸水没。平成10年11月にこの地に集団移転したとのこと。
 その先に東屋がありここからは西岳の眺めがよい。旧中山一里塚も近くです。一里塚は西塚のみが残存しており直径11.4m、高さ3.5m。東塚は昭和50年代まで残っていたが崩され畑になったとのことです。


【写真7】旧中山一里塚

 旧中山集落を通ります。ここにも明治天皇小休憩所と記された標柱が立っていました。


【写真8】旧中山

 旧中山〜火行間は道の両側に赤松林が続きます。火行集落内に伝馬所の案内板がありました。

火行伝馬所
 江戸時代になると、全国各地と江戸を結ぶ交通網の整備がはかられました。街道沿いに宿駅を設け、物資輸送と役人往来のための伝馬が設置されたのもその一つです。旧奥州街道沿いの火行にもこの伝馬所が置かれていました。伝馬所では求めに応じて、公用運行に利用するための馬や人夫を安い料金で提供することになっていました。


【写真9】火行

 火行集落そして蒼前神社を過ぎると丁字路に突き当たりますがここに旧奥州街道の案内板があります。

旧奥州街道
 奥州街道は江戸日本橋を起点とする五街道の一つで奥州道中とも呼ばれています。江戸幕府の直轄するのは白河(福島県)までですが、それ以北も奥州街道と呼ばれ道は津軽半島までつづいていました。街道筋には並木が整えられたり一里塚が造られて整備は急速に進められました。岩手町御堂観音から一戸町小繋までの間は旧街道がほとんどそのまま残っていて、一里塚は3カ所連続して見ることができます。

 丁字路で左折。ここから国道4号線小繋駅前まで下り坂です。途中、本日三つ目の一里塚があります。


【写真10】塚平一里塚

 小繋駅前のオークビレッジという店舗脇(南側)に出ます。ここにも自然歩道のコース案内板があります。


【写真11】小繋駅・国道4号線

 国道4号線を北上し歩行者専用のトンネルを抜け終点の小繋集落に到着しました。


【写真12】小繋

 小繋御番所跡地は雑貨店の向かい側長楽寺の隣です。この場所にも明治天皇御昼飯跡の標柱がありました。

小繋御番所
 御番所とは、江戸時代に物資の移出入や人々の往来を取り締まることを目的として設けられた役所のことです。特に藩領の境に置かれたものは御境番所などと呼ばれ重い任務が課せられたものでした。奥州街道沿いの小繋にも御番所が置かれていました。藩領の境ではありませんので、ここは領内の物資や人々の動きを監視するものだったでしょう。
 17世紀末頃の記録によると、南部領内には御番所が26カ所あったとされています。


【写真13】小繋御番所

天台宗小繋山長楽寺
 坂上田村麻呂が征夷大将軍として大同2年(807)に東夷鎮撫祈願のため当地に地蔵堂を建立した。
 再三の火災に偶すも地蔵堂だけは不思議にもその都度難を免れ一層霊験あらたであることを世間の人が知ることになり、盛岡以北、松前藩より鹿角に至るまで信者の参拝が絶えませんでした。

 小繋駅に戻り帰路に向かう電車を待ちます。駅舎は映画「待合室」のロケ地にだったところで当時の写真などが掲示されていました。

<完>

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