東北自然歩道 新・奥の細道

末の松山のみち

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● はじめに

 一戸町の鳥越観音から末の松山、旧奥州街道、九戸城跡を経由し二戸市長嶺までのコースです。

● 調査日

2006年11月23日

● コース概略図

(起点)鳥越→1.4km→展望地→1.9km→浪打峠→3.7km→九戸城跡→1.9km→古梅園→3.1km→長嶺(終点)

● 交通アクセス

 起点の鳥越はいわて銀河鉄道一戸駅または二戸駅から岩手県北バスまたはJRバスに乗車し鳥越観音前で下車。終点の長嶺はいわて銀河鉄道斗米駅から徒歩15分。

● コースを歩いて

 一戸駅で下車。駅前からバスの便もあるが時刻まで少し時間があるので市街地見物をしながら駅前広場から北に向かって歩き始める。道幅の狭い中心街を通過し馬淵川を渡り左折。この付近(本町)で路線バスに追い抜かれる。一戸高校を過ぎると浪打峠右折の道標がある。この道に入ると旧奥州街道を通り浪打峠に至ると思われる。ただし自然歩道の起点鳥越に行くにはこの道に入らずしばらく国道4号線を北上する。
 八戸自動車道の下を通り抜けると国道東側は山の斜面に沿うがこの斜面で放し飼いのヤギが一頭草を食べていた。ドライブイン前を通過すると国道東側に平野が開け前方に大きな鳥居が見えてくる。この鳥居が自然歩道の起点、折爪馬仙峡県立自然公園鳥越口である。バス停は鳥居から北200m先にある。

新奥の細道
東北自然歩道 末の松山のみち
 ここは一戸町鳥越から二戸市長嶺まで約11kmの自然歩道の起点です。
 コースの途中には、京の歌人からあこがれをもって歌われた末の松山、奥州糠部(ぬかべ)三十三観音のうち29番札所鳥越観音、豊臣秀吉が天下統一を果たす戦国時代最後の戦場となった九戸城跡、五輪塔で有名な御明堂などが有り、多くの歴史に触れる片道約4時間のコースです。


【写真1】鳥越起点(右は国道4号線)

 国道4号線から分かれ緩やかな坂を上る。鳥越観音前まで道沿いに民家が続く。


【写真2】鳥越観音参道

 参道には新道と旧道があり新道は途中まで車が入ることができる(車道終点に広い駐車場あり。その先は旧道と合流する)。小生は旧道を通った。赤鳥居から石段を上る。宮古沢の桜の案内板と小祠がありこれが観音堂かと思ったが違うようだ。道を違えたと思い一旦引き返す。が、他に参道らしき道は見当たらない。再び小祠前に戻りその先の森の中に続く細道に入ってみる。
 進んでいくと一丁目、二丁目と順に石柱道標が立っていたので参道の目印となった。三丁目には弁慶岩と記された大岩がある。四丁目で新道と合流。仁王門をくぐり上方を見上げると絶壁の様な急斜面の中腹に観音堂が見える。参道はその斜面をつづら折りに上っていく。仁王坂・もみじ坂・六丁目坂・観音堂坂と坂道が続き七丁目が終点の観音堂である。案内板によると観音堂内部は山の岩壁を掘った洞窟状になっているようだ。雰囲気としては平泉の達谷の窟に似ていると思う。

鳥越観音
 慈覚大師の開基。慶長7年(1602)南部利直公より寺領三石を賜り、寛文12年(1672)には、南部重信公より観音堂が再興されるなど南部藩主の崇敬が深かった。その昔、奥州糠部三十三観音があり、階上をふりだしに八戸、青森各所を廻りここは二十九番札所である。朝日観音等と続き三十三番札所の天台寺で終わる。


【写真3】観音堂

 参拝後、参道を下る。車道に出て北方向に進むとおばあさんに遭いどこへ行くのか尋ねられた。初めて訪れる土地で自然歩道の道標を頼りにして歩いている小生にとって明確な行き先を答えるのは難しい(行き先不明のミステリーツアーに似ている。多くは、事前の下調べをしていないので行き当たりばったりの旅となり道に迷うことが多い。)。「ちょっと向こうの方まで見学に・・・」といい加減な返事をしたら意外にもおばあさんは満足げにうなずいていた。  しばらく車道を進むとその理由がわかった。広い草地と東屋があり北面は二戸市街地を一望にできる展望の良いところがあった。

展望地
 右手に見える大崩崖(おうほうがけ)をはじめ、左手奥方向の男神岩(高さ180m)と女神岩(高さ160m)を含む馬仙峡に折爪岳を加え昭和37年県立自然公園に指定された。昔、男神の嫉妬に狂った女神は大蛇になり馬淵川の主になって人々を恐れさせたが里人は社を建て霊を祀ったという話が伝わっている。


【写真4】展望地

 展望地で昼食休憩。鳥越観音で時間がかかったせいかまだコースの4分の1程度しか進んでいない。大崩崖を右手に歩いていくとやがて車道の終点となりその先は山中の道となる。右左折を繰り返しながら林の中の斜面を上り小ピークを越える。樹林帯を抜け展望が良くなり前方に浪打峠が見える。  浪打峠は各種の案内板や碑が立っている。明治天皇御野立の碑(旧奥州街道が通っていたので明治天皇が東北御巡幸の際ここを通った)、浪打峠交叉層の解説(下記参照)など。クロスラミナは学校の地学で習ったが実物を見るのは初めてである。後で撮影した写真を見ると白い地層が斜めに交叉していることがよくわかった。

国指定天然記念物 浪打峠の交叉層
 交叉層とは普通「偽層」(クロスラミナ)と呼ばれ、地層が斜めに交叉する小規模な地層のことで流動している水中、または空気中で砂や砂礫などが堆積する時に生ずるものといわれています。
 浪打峠は海水の中で堆積したもので砂や軽石の粒や火山岩の粒が主な堆積物で、それにホタテ貝などの破片を多く含み美しい縞模様をつくりながら積もり、明瞭な交叉の様子を見せています。
 この地層は「末の松山層」といわれ、海底火山の噴出が盛んであった時代に、海水の中で堆積した「末の松山層」の上位の部分の地層で今から1500年前に堆積したものと考えられています。
 浪打峠は「末の松山」ともいい、昔一戸から福岡(二戸市)へ抜ける奥州街道となっていた場所です。
 この地層はその外観が美しく規模も大きいことから国の天然記念物として指定されました。


【写真5】末の松山・浪打峠

 峠を北方向に下る。道幅は狭いが舗装されている。道の左手に山下水が涌いている。ただし水質検査の結果この水は飲用に適さないとのこと。

山下水 やましたみず
 明治9年(1876)明治天皇が東北御巡幸の折、浪打峠で行われた野立てにこの山下水が用いられ大変喜ばれた。その後この山下水は御膳水と呼ばれる名水となった。その水桶に添えて差し出された和歌が石碑に刻まれている。
「足曳きの山下水をくみあげてわが大君にお茶たてまつる」


【写真6】山下水

 末の松山トンネル方面からくる広い車道と合流する。道路の左手(西側)にも清水が涌いている。ちょうど道の反対側に馬頭観音の石碑があったのでその場所から清水の写真を撮る。撮影中、車両の通行の邪魔にならない(=交通安全)場所があって良かったと単純に思った。あとで偶然、郷土史の本を見たらその馬頭観音の石碑が旧奥州街道の道標であり一里塚も近くにあるとのこと。うっかり見落としてしまった。

桜清水 さくらしみず
 桜清水地蔵尊は、天保4年(1833)日向国臼杵郡岩戸村(今の西臼杵郡高千穂町)の新作という人が旅行者の安全を祈願して建立したもので、お堂の脇から湧き出る清水は当時の旅人の喉を潤した。


【写真7】桜清水

 新興住宅地の柿ノ木平(市営バスの停留所がある)の丁字路に自然歩道の道標があり直進は御明堂、左折は九戸城跡である。先ず九戸城跡に向かう。城跡の敷地は広い(パンフレットによると34ha)。石垣、堀、礎石が残っている。九戸城の興亡については高橋克彦氏の小説「天を衝く」が参考になる。城跡近くに郵便ポストのような塔が立っていて正面に扉がある。この扉を開けたら中に城跡のパンフレットが入っていた。


【写真8】九戸城本丸跡

 九戸城跡から直に御明堂に至る道があるようだが道標が見当たらないので一旦柿ノ木平まで戻る。道標に従い車道を直進、途中からリンゴ畑の中の細道に入る。道は次第に細くなり心細くなるがやがて石碑と東屋がある御明堂に着く。

御明堂 おみょうどう
 南部信直公に仕えた今渕政明に「お三世」という娘が居た。この人は後の福岡城主兵六郎家直の母である。お三世は寛永20年(1643)に亡くなり供養するため五輪塔(姫五輪と呼ばれている)が建てられた。この「御明堂」は「お三世殿」の墓の呼称がなまったものと伝えられている。


【写真9】御明堂

 車道に戻り北進する。穴牛バス停を過ぎ道は左右に分岐するが道標がないので勘に頼り右に進む。白鳥川を越え県道24号に至る。ここで県道の西側(市役所方面)を見ると古梅園を示す看板があった。県道から民家の並ぶ道に入り突き当たりが公園となる。中央に柵で囲まれた梅の木がある。

九戸古梅園
 古梅園は九戸政美が好んで清遊された庭園でとりわけこの老梅は風姿恰も播竜の如く政美遺愛の一本と伝えられている。淡紅の花は六弁の梅と呼ばれて親しまれ今尚こよなき芳香を放っている。


【写真10】古梅園

 御明堂を発って以後、自然歩道の道標を見かけなくなった。道標を探し求め県道を市役所方面まで進み裏道も通ってみたが手がかりがない。次の目的地は陣馬山なので地形図で陣馬と記されている所に行けば何かあるかも知れないと思った。再び古梅園の公園近くまで戻り北側の斜面に上る道に入る。途中で道は左右に分岐する。迷ったが左に入る。坂を上り詰め台地状の地形となる。前方の十字路角に自然歩道の道標が立っていた。

陣馬山 じんばやま
 天正19年(1591)九戸政美の乱の時、金田一長瀬の合戦で、九戸勢を敗走させた南部信直公は、堀野の武内神社で戦勝祈願をし、この地に陣を張った。よって九戸城を一望できるこの地を俗に陣馬山と呼ぶ。  古図によれば南部軍は今の福岡中学校・市役所沿いに陣を布いていた。


【写真11】陣馬山

 県道264号で左折。二戸市街地に向かう。長嶺地区では住宅地の中で右左折するが今度は道標があるのでわかりやすい。


【写真12】長嶺・終点まで100m右

 二戸市のメインストリート県道274号に出る(平賀自工前)。終点の道標は見当たらなかった。これでは逆コースから歩き始める場合、道探しに苦労しそうだ。既に日没。IGR斗米駅まで歩き電車に乗って帰路に着く。

<完>

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