東北自然歩道 新奥の細道

伝説義経北行コースのみち(1) <明治記念館>

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● 向山公園から明治記念館へ

展望台から階段を下り砂利道を横断しさらに道を下っていきます。児童遊園地がありますがここに戸崎起点と同様のコース案内板が設置されています。しばらく下るとNO.13道標が右手にあります。

NO.13道標

道標に従い右手から分岐する細い道を下ってゆきます。住宅地に入ります。服部地区住宅案内板の下に自然歩道の道順を示す標柱が立てかけてありました。この標柱は道路工事中のため地面から引き抜かれた為,そこにあったと思われます。

服部地区住宅案内板
ここで左折すると明治記念館への近道
直進すると人首川

左折すると右手に多聞寺があります。多聞寺には義経伝説が残っています。境内にはその伝説を伝える看板が立っています。内容については下記を参照願います。

多聞寺

多聞寺の南側に終点の明治記念館があります。明治記念館の隣にある児童遊園地内に伝説義経北行コースの大看板が設置されています。この看板には岩手県内の義経北行コースを示す地図が記されており興味深い。内容については下記を参照願います。

明治記念館

多聞寺境内にある伝説義経北行コースの大看板の内容

伝説義経北行コース・多聞寺跡

悲劇の名将源九郎判官義経は文治五年(1189)四月,兄の頼朝に追われ,平泉の高館(義経館)において自刃した。時に三十一歳であった。

しかし華麗にして悲運なその生涯は後世の人々の胸の中に消えることなく生き続けていた。

いわゆる「判官びいき」であろうか。短くも鮮やかな印象を残した一代の英雄に対する愛情の念が義経がひそかに平泉を脱し,北をめざして旅に出たという伝説をつくりあげたのである。

その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は,その途中この多聞寺に投宿し,その謝礼として鈴木三郎重宗の「笈」を置いていって去った”と伝えられている。

この多聞寺は,明治五年の火災ですべてが灰になったため今はその「笈」も見るすべもないが広い境内には「弁慶の腰掛けの松」と名付けられた老松などもあったという。

児童遊園地内にある伝説義経北行コースの大看板の内容

伝説義経北行コース

悲劇の名将源九郎判官義経は文治五年(1189)四月,兄の頼朝に追われ,平泉の高館(義経館)において自刃した。時に三十一歳であった。

しかし華麗にして悲運なその生涯は後世の人々の胸の中に消えることなく生き続けていた。

いわゆる「判官びいき」であろうか。短くも鮮やかな印象を残した一代の英雄に対する愛情の念が義経がひそかに平泉を脱し,北をめざして旅に出たという伝説をつくりあげたのである。

この「伝説義経北行コース」は,こうした伝説を求める人々の心にこたえ,各地に残る義経北行の伝説の中からいくつかの地点を選び,それぞれを結んだものである。


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