東北自然歩道 新奥の細道

種山高原のみち<3>

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● 物見山山頂→賢治碑→道の駅ぼらん

山頂から一旦登ってきた道を引き返す。遊林ランド方面への分岐を過ぎると笹藪の中に入る。小生が小学校の時もこの藪の中を歩いた記憶がある。藪の中に東屋があり,下記の種山ヶ原の案内板が立っている。【写真】賢治碑付近から物見山山頂を見る。中腹にある建物が星座の森

種山ヶ原

標高600mから800mのなだらかな種山ヶ原(種山高原)は,藩制時代から馬の放牧地でした。大正時代には宮沢賢治が度々この地を訪れ「牧歌」「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など種山ヶ原を舞台とした作品を多く残しています。昭和24年から県営種山牧野となり牛や馬が放牧されています。

東屋から再び背丈ほどに伸びた笹藪の中に入る。振り返ると幾筋の旧道が山頂に向かっているのがわかる。笹藪から抜け出し平坦な広場に出る。この辺りがイベント広場と呼ばれる所だと思う。駐車場を過ぎ,牧場の中を通る。ここから車道を歩くことになる。途中に道の右手に星座の森というキャンプ場がある。管理棟を覗いてみると中には売店・食堂・入浴(薬草湯)の施設があった。道の左側はオートキャンプ場となっている。

自然歩道の起点近くにある遊林ランドは住田町の施設であるが,星座の森は江刺市の施設である。どちらも最近できたもので似たような施設に見える。ハイキング・森林浴を楽しむなら遊林ランドから歩いたほうが良いと思います。

車道を真っ直ぐに下る。左に大きくカープするところに賢治碑入口の立て札があった。ここで右手の階段を登り車道と別れる。道の右側は牧草地である。少しずつ斜面を登っていく。敷石が交互に並んでいる遊歩道を歩いていくと前方に広々とした草地が見えてくる。ここに賢治碑・立石・東屋がある。

賢治碑には牧歌が刻まれている。この素朴な詩は小生が小学校の遠足の時に何度もバスガイドから聞かされていた物である。自然以外何もない種山を賢治独特の表現で詠った物であり子供心でもおもしろいと思ったものだ。

「種山ヶ原の雲の上で刈った草は,どごさ置いだが忘れだ,雨ぁ降る」

【写真】左・立石,右・賢治碑

立石

この立石は標高730mで北上山地の山なみを一望に収めることができます。種山ヶ原をこよなく愛した宮沢賢治は幾度となくここを訪れ数多くの作品を残しています。その作品の中から種山ヶ原の強い印象を詠んだ「牧歌」を刻んだ歌碑が昭和37年に建立され「賢治の森」として多くの人々に親しまれています。

賢治碑から牧草地を横断し林道に出る。林道の両脇には食べ頃のふきが生育しており数人の山菜採りの方と行き違う。種山山頂に向かう車道と合流ししばらく進むと姥石峠に出る。ここは,江刺市と住田町の境界である。姥石峠には自然歩道の案内板が立っている。

姥石峠から住田町側に下り起点の道の駅に向かう。途中に思いがけず義経伝説の案内板が立っているのを見つけた。頭の中はすっかり賢治の世界に浸っていたのだが,ここで古代東北の歴史ロマンに思いを馳せることになる。

【写真】左・姥石峠,右・義経伝説の案内板

伝説義経北行コース
姥石峠

悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ,文治五年(1189年)四月,平泉の高館において三十一歳を一期として自刀したが,短くも華麗だったその生涯を想い,”義経は,その一年前にひそかに平泉を脱し,北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのである。

世にいう「判官びいき」であろう。

その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従がその途中伊手の源休館を経てこの姥石峠を越えた。人首部落からは五輪峠,大森山,さらに物見山などの峰伝いに進んだ”と伝えられている。

岩手県観光連盟

さらに下っていくと昔のキャンプ場・駐車場がある。以前はここに車を置き種山まで歩いたのだが,種山トンネルの開通により峠を越える車両はほとんどない。閉鎖されたキャンプ場は荒廃し,駐車場には一台の車もなかった。道の駅でジュースを飲みながら水沢行きのバスを待つ。(完)

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